2007年05月18日
我が家のガラクタ Part 3の続き
下のブログの続きデス。
このバイクをご存知の方はどの位いるでしょうか?
Honda RC211V ゼッケン“74” 2003年加藤大治郎モデルです。
ハイ、ズバリまたもマニアックな所にいってしまいました。。。スイマセン。。。。
これは何かというと、2003年4月6日WGP(下記ブログ参照)開幕戦の鈴鹿サーキットでのMotoGPクラス決勝戦でライダーの大治郎選手が乗っていたバイクです。
そして、このレース、スタートしてわずか3周目終了直前のシケインで大治郎選手はクラッシュ、その2週間後の4月20日、26才という若さで帰らぬ人となりました・・・。当時はニュースなどでも報道されましたが、バイクレースに興味をお持ちでない方の記憶にはほとんど残ってないことでしょう。。。
WGPという世界最高峰のバイクレース、車でいえばF1みたいなものですが、日本での人気、認知度はかなり低いと思われます。サッカーや野球、F1などで日本人選手が海外で活躍すると大きく取り上げられますが、WGPでの日本人の活躍は意外と皆さん知らないでしょう?WGPでの日本人の活躍は他のメジャーなスポーツに負けない位のスゴイものがあると僕は個人的に思ってます。この、加藤大治郎選手などは、2001年にはF1の中嶋悟氏に次ぐモータースポーツ界では2人目の、文部科学大臣から「スポーツ功労者」として顕彰されているのですよ。すごーい!(今現在、何人貰ってるかは知りません・・)
そして、大治郎選手が亡くなった後のWGP第2戦南アフリカGPは感動のレースでした。決勝のスタート前、全ライダーとスタッフが黙祷をしてからのレース、多くのライダー達が大治郎選手のゼッケン番号“74”をヘルメットやマシンにつけてのスタート・・・大治郎選手のチームメイトだったセテ・ジベルノー選手のまさかの優勝!あのレースは号泣モンでしたねぇ。。見えない力ってあるんだな~と心から思ったレースでした。。。。。。。
それと、亡くなってから約1ヶ月後の5月18日、偶然にもこのブログを書いている日のちょうど4年前、Honda青山ビルで、ファンの為の「お別れの会」があり、僕も嫁と2人で参列しました。来場者は9千人、献花をするまでビルの周りを3周+α位の長蛇の列に嫁と“ひまわり”を買って並び最後のお別れをしました。
これはそんな思い出のあるバイクです。
その年、大治郎選手は功績を称えられ殿堂入りし、ゼッケン“74”は永久欠番になりましたとさ。
ちなみに、“74”は大治郎選手の誕生日の7月4日です(^^)
長々とマニアックな話しで本当にスイマセン m(_ _)m
- by Hair CAS
- at 15:49
comments
バイクに乗らない私ですが、実は加藤大治郎選手知ってます。私が甲府にいた頃、FM富士という地方局の番組を毎週日曜に聞いていました。その番組の1コーナーにWGPをずっと追っているコーナーがあり、10代の頃の加藤選手が毎週のように電話インタビューで出ていたのです。まだ少年のようなしゃべりで、しかしレースでは大人顔負けのすごい走りをしていたのを(結果だけですが)覚えています。ですから、この事故を知ったときは結構がっくりきました。でも周りでは誰一人知らなかったですね。そんなもんなんだなぁと思ったもんです。ところであの頃の青木3兄弟達はまだ活躍しているのでしょうか?
青木3兄弟は今はWGPのレースには出ていません。長男の宣篤は確かHondaの開発?テスト?ライダーをやっているはずで、次男の琢磨はだいぶ前に残念ながら練習走行中の事故で下半身がダメになって今はHondaのアドバイザーになってるはずです。よく、WGPのTVの解説をしてますよ。3男の治親はこれまただいぶ前にオートレースに転向しました。それぞれ、違う形で活躍してますね!
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あにきはすずきの開発じゃなかったけ・・・
あっ!SUZUKIでしたっけ?そうかも。
大治郎のお別れ会は私も行きましたよー。
本当に惜しい人を亡くしました。
大治郎がプライベートで使っていたスクーターが展示してありましたが、大治郎は池上に住んでたらしいのでどこかですれ違ってたかもしれませんね。
お別れ会で配られてた「74」番のステッカーは、いつか自分のメットやバイクに貼ろうと思ってますが、未だに使えずとってあります。
って、コメント遅すぎですね。(^^ゞ
blog見ましたよ~ってことで。